IKUOのひとりごと 〜フランス便り〜

<2009.3.7 File No.15>

忍者

「一森、イチモリさん?珍しいですね。」と言われることがある。
実家の周りには従兄弟が多いし、特別珍しい名前とは思っていなかったが、
確かに、親戚以外では同姓の人に会ったことがない。
名前の育郎にしても、同じ漢字でイクオと読むのには、お目にかかったことがない。
姓名共に、矢張り珍しい名前の分野に入るのだろうか。

一度、札幌の友人が、凄い占いの先生がいるから、お前の事を診てもらった、と
レポートを送ってくれたことがある。
目的はヘルペスの後、耳が聞こえるようになるか?とか、後遺症に関することだったが、
「人と違った物を好む変コツな性格」と性格判断されていたのにビックリ仰天。
正に子供の頃から、全くその通りだったのだ!
皆と同じ物には興味なく、常に違った物を、変わった物を欲しがった。
それだけで凄い先生だと思ったが、今改めて考えれば、名前からして変わっているなら、
先生にとっては言い当てるのは、さほど難しくなかったかもしれない。

第2次大戦中、ブルターニュ地方で青年レジスタンス運動を共にした親友が、
「ドイツ軍に殺られた」と偶然、通りかかった町ですれ違った友人から聞いたまま、
終戦後、別の街で学業終えて、石油関連のエンジニアとしてモロッコですぐ働き始め、
その後現役中は殆ど外国暮らしを過ごし、やっと退職してフランスに住むことになった
私の友人ロベールが、亡くなった思春期の頃の友達、ジャックの事をもっと知りたい、と
調査を始めた。

あっちこっちの村役場に手紙を送り続け、何人かと電話でも話した結果、
ブルターニュ地方のレジスタンス運動の資料を集めて、本を出版している作家と
連絡取る事が出来、用件を伝えたら、何とその本に“Jacques Tack1944年ここに死す”
と記された石碑の写真つきで、載っていることが分かった。

作家と一緒に、何の変哲もないその現場、ポールという小さいブルターニュの村に
行く手はずになったので、私も同行したいと、ついて行った。
それまでの間に、作家は色々資料を調べてくれたようだが、新しい情報は得られなかった。
ドイツ軍に捕まった3人の青年が連行される途中、通りがかったポール村で、
一人が逃げようとした所を、ドイツ軍に撃たれた。
それが運悪くロベールの友人、ジャック青年だったようだ。
まだ二十歳に成るか成らない青年の命が、いとも簡単に亡くなったかと思えば、心痛む。

元々ブルターニュの田舎町に住んでいたロベール少年の学校に、
フランス北部の都会、リールからジャック少年が、お父さんの仕事の関係で転校してきた。
片や田舎町の漁師の息子、片や都会の音楽家の息子、共に一人っ子だった。
文学好きだったロベール少年と、絵を描くのが好きだったジャック少年、
ピアノの先生をしていたお母さんから、初めてクラシック音楽のレコードを聴かされた、
簡素な田舎の村育ちのロベール少年にとっては、カルチャー・ショックだった。

綺麗に刺繍されたナプキンを使っての洗練された夕食、家族と一緒に文学についての会話、
音楽に関する目覚め、何もかもロベール少年には本でしか知る事のなかった別世界。
一つ年上のジャック青年とその家族から、思春期の自分に大きな影響を与えられた、
と彼らに対して感謝の念と共に回想する。

「ジャックが殺られた」と聞いた後、長い年月をいろんな国で過ごしたが、
帰国する度、ジャックの両親の行方を捜したが、既にブルターニュには居なくなっていて、
元々、土地の人間でない上、一人っ子だったジャックの家族の手がかりがない。
何時も頭の中で気になりつつ、定年退職してフランスに落ち着くのを待って、
やっと事件から半世紀も過ぎて、何とか概要が分かった。
長い間、石碑の前で無言で、頭を垂れてジャック青年と会話するロベールの後姿を見ると、
思春期の友情の篤さ、共に祖国のために戦った純粋さ、心打たれる。

村の同年輩のお爺さんたちで、レジスタンスに参加していたという3人も来てくれたが、
通りすがりの出来事ゆえ、誰も目撃した人もなく、ジャック青年のことも知らず、
話として聞いたことがある、程度の情報しか得る事出来なかった。
翌日花束持って再度現場に行った帰り、近辺の村人達の戦死者の慰霊碑にも寄ってきた。
新聞にその時の模様が、写真入りで記事になったほど、普段は静かで何もない村だ。

帰り際に、前日知り合った一人の村の老人が、「アンタは日本人か?」と私に質問した。
「自分の幼馴染も今横浜にいる。この村から(ポール村)戦後すぐ宣教師として行った」
「そのまま帰って来ない」と話してくれた。

丁度1ヵ月後にロベールも日本に行く事になっていたので、神父さんの名前を聞いて、
「貴方の元気な様子を知らせておきます」と約束して別れた。

東京でフランス大使館からフランス・カトリック・ミッション協会の電話番号を教わり、
連絡して調べて貰った所、ポール村の神父さんは横浜でなく伊賀上野に居ると分かった。
旅の途中、神父さんに連絡したら、泊まれるのでぜひお越しください、との事。
「伊賀神戸と書くけど、イガ・カンベと読みます。
そこで単線に乗り換えて伊賀上野まで来て下さい」と日本語で説明された。

教会を訪ねて行ったら、お茶を用意するから、と待合室に案内された。
何気なく目をやった黒板に、掃除当番:一森○○、炊事当番:一森XXと記されている。
お茶を運んでくれた神父さんに早速尋ねたら、
「この辺にはイチモリさんは多いですよ」との返事。

ひょんな事からブルターニュの片田舎の村を訪ねて、偶然教えられた神父さんの名前から
初めて来ることになった伊賀上野へ、そこで、珍しい一森という名を耳にするとは・・・?
矢張り私にはご縁のある場所なのだろうか?
神父さんが退職して神戸の近くに越されるまで、3年間、毎年訪ねて行くご縁が出来た。
伊賀上野と言えば、言わずと知れた隠密、忍者の町。
翌日は神父さんと一緒に、カラクリが巧みな忍者屋敷も見に行った。

そういえば、子供の頃イチモリと言うのは伊賀上野に多い、と
近所のおばさんが自分の出身地、伊賀上野の話をしていたことがあったっけ。
嘘か本当か、一森は伊賀上野の忍者だった?とも聞いたことがある。
以来、多少忍者関連の本も読んだが、一森の名に出くわしたことはない。
もし忍者だったとしても、ジェームス・ボンドのように有名な、大事なミッションに
係わる事のない、下っ端忍者の、そのアシスタント位だったのだろう。

又は、子供の頃忍者ごっこをして遊ぶのが好きだった弟の事を、からかって言ったのか、
さもなければ、弟は本当の忍者の生まれ変わりだったのか?定かでない。


                    チャン島にて 2009年2月10日 

                              いくお 


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