母の荷物を整理したら、写真が出てきたので、と私の手元にも姉から写真が届いた。
子供の頃の正月、晴れ着を来て床の間の前で、家族9人で写した写真や、
弟と一緒に七五三の衣装着て、うっすらと化粧を施した色塗りの大判写真。
写真屋に頼んで写してもらうのは、ある種の出来事だったので、ぼんやりと憶えている。
思い出すのは全て幼稚園の頃、以降だが・・・
一体、人間の記憶力はどの辺りまでさかのぼれるのか?と思い出そうと努めても、
矢張りもっと幼少の頃の記憶がない。
アルツハイマーになれば、記憶力がなくなり昔の記憶がよみがえる、と言うが
まさか今思い出せない以前の時代迄さかのぼって、思い出すことが出来るのだろうか?
自分で確認するために、痴呆症になりたいとは決して思わないが。
波の音が心地良いのは、母親の胎内に居たときの音を思い出すから、と聞いたが
潜在的な記憶として残っているのだろうか?
私には幼稚園以前の記憶すらないが、もっともっと昔の、前世の記憶を
思い出せる不思議な能力と感性を持った人が居る。
確かめようがないから、何とも言いようがないが、
思い出す前世の生まれ変わりの記憶は殆どの場合、全人類の0.01パーセントにも程遠い
有名人や特殊な人に属する場合が多いが、それは一体どう説明すれば良いのやら。
1年365日の事を完全に憶えている事は不可能だが、記憶として残るのは
当然のことながら日常生活とかけ離れた経験が、思い出として心に残る。
良くした物で、嫌なこと、辛かったことは、後から考えると
さほど辛かった事としては思い出さない、大半は忘れ去ってしまっている。
私の場合、成人になって日常生活と一番かけ離れた経験は、
矢張りフランスに来たことで、今でも克明に覚えている。
母と二人で、東京に出発する前夜、我が家で家族や従兄弟たちと夕食を共にした。
宴会も終わりに近づいて、年長の従兄弟の「イクオ・バンザーイ」の掛け声と共に、
私は号泣してしまった。
急にフランスが地球の裏側どころか、もっともっと遠い所で、一人っきりで行ってしまう、
もう誰とも会うことが出来ない、これが最後、と感じた物だ。
未だ世間知らずの21歳、生意気なことは一人前言えても、まだまだ子供だった。
そんなことはコロッと忘れて、パリに着いてからは寂しいと思って泣いたことは勿論無い。
憧れのパリに着いた、と言う幸福感のみに満たされて、水を得た魚のごとく元気溌剌。
1968年の3月末、既にマロニエの白い花が咲いていた。
夢に何度も現れた、サン・ジェルマンのカフェ・テラスに初めて座った時の充実感。
未だ日本では、カフェ・テラスなんて存在しない時代だ。
石畳も夢に見たパリの街そのまま。
そう、周りは皆、外人さんばかり。
私がその中では珍しい外国人、として座っている。東京に居た時とは立場が全く逆で、
まるでフランス映画の中に、自分一人がポツンと放り込まれた、現実離れした感覚。
アラン・ドロンがすぐ横に座っていても不思議ではない、と言う感じ。
暫く落ち着かなかったが、さも慣れた様子で何気なく、周りの彼らと同じ様に、
ゆっくりと1杯のエスプレッソを、道行く人々を眺めながら、パリの味を堪能した。
4月初めの日曜日の朝、Toursと言う町へフランス語の勉強のため、
パリから300Kmの道のりを、5区にあるオーステルリッツ駅から電車で出発した。
《フランスの庭園》と呼ばれる、穏やかな気候とルネッサンス期の華やかなお城で有名な
フランス最長のロワール川と、シェール川に囲まれた美しいブルジョワの町。
尤も綺麗なフランス語を話す地方、としても有名だ。
当時はその学校が一番良い語学学校と言われていて、迷うことなく登録済ませた。
その頃のパリの街もそうだが、地方都市は尚更、町中の全ての店が日曜日は休日。
午後着いて、すぐ町の中心に出たが人っ子一人見かけない、まるでゴースト・タウン。
雑踏とした東京で生活していた21歳の青年、こんな地の果てで生活できるのか?
大阪と東京しか知らなかった私は、すっかり先行きの自信をなくしてしまった。
翌朝、学校へ行き、手続きを兼ねて、住まいとなる下宿の住所を貰い、
日本から担いで来た重いトランク持って胸弾ませて、目的地のアパートのベルを押した。
ドアーからどんな素敵なマダムが、バルドー風かドヌーヴ風かと期待していたら
顔を出したのは何と期待を裏切って、小柄で痩せて鼻の高い、バァさん!
黒い服を着ていたが、これに箒でも持っていれば間違いなく魔法使いのお婆さんだ。
「ボン・ジュール、マダム!」とそれでも点数稼ごうと、ニコッと笑って挨拶したら、
誇り高く威厳に「ノン、マドモワゼル」と訂正された。
学校で言われた月家賃で、既に何日か過ぎていたので、日割り計算してくれた。
にも拘らず、いざ、前金で払う段になると、言っている金額が合わない。
2桁多い金額を払えと言う。私は納得できないし、何より凄い大金ではないか。
好印象を与えようと一生懸命笑顔で対応していた私の顔が、引きつってきた。
この婆さんは魔法使いどころか、相当の悪魔に違いない。
悪の言いなりになってはいけない、と咄嗟に判断。
慌てて学校へ引き返し、事務所に飛び込んだ。
フランス語はこれから習うために此処に来たのだから、話せるはずがない。
頭の中は知っている英語の単語と多少のフランス語がミックス。
どうやって説明できたのか不思議だが、数字を書いた紙を見て意味が通じたようだ。が、
事務所の女性が、急に笑い出したのだ。
笑われるような事を、何かしたのだろうか?腑に落ちない。
ベラベラ説明されても、「ジュ・ヌ・コンプロン・パ」分かりません、だが
「アンシアン・フラン」と言う単語が聞き取れた。旧フラン、と言っているようだ。
既に数年前に旧フランから新フランに変わっているが、未だに旧フランで言う人が居る、
新フランで1フランのことは、旧フランでは100フランに該当する。
2桁多いのはその為だが、彼女は旧フランで、貴方は新フランで話しているからだ。
なるほど、それなら分かる。婆さんは悪魔でなく正直者だ、と納得できた。
再び笑顔を取り戻して、婆さんの所に戻った私は、あんたは旧フランで言ったんだ、
納得出来た、と説明したら、婆さんも初めてそれに気がついたらしい。
何時までも新しい事を取り入れたがらない頑固なフランス人とは、こういう事か。
初日にして一つ憶えた!
当初、食事に困った。
下宿では食事はついてないし、何処で何を食べれば良いやら分からない。
近くのビストロが値段も良心的に見えるし、毎日通ったが、食べるものが分からない。
唯一オーダーできる、「ビフテック」を毎日食べて、うんざりした。
たまにはさっぱりと鶏でも食べたいと、「チキン」と言っても通じない。
周りの人も同じ物を食べている。牛肉にマスタードをつけて。
フランス料理は美味しいと聞いていたのに、野菜はジャガイモしかないのだろうか?
ある日、横の客に運ばれた物が、何か分からないがビフテキではなかった。
給仕のおばさんに「メーム・ショーズ」同じ物を、と思わず叫んだ。
兎に角、ビフテキ意外なら何でも良かった。
運ばれた物は、どうやらキャベツらしい。フランスにもキャベツがあると
一大発見した時の嬉しかったこと。しかも美味しい料理で有頂天になった。
やっと美味しい物を食べることが出来た、食事が美味いはずの、フランスで。
後で分かった事だが、その時食べたのはシュークルート、塩漬けキャベツの料理だった。
過去にドイツになったりフランスになったりした地域、アルザス地方の名物料理。
豚肉やソーセージもついて、ボリュームたっぷりの料理だが、さっぱりしていて美味しい。
今でも好きだから機会有れば何時も食べるが、トゥールで食べた時のことを忘れられない。
学校で知り合った学生に連れられて、一緒に学生食堂に行くようになった。
私の学校の近くでなく、大学寄宿舎の横で遠く離れていたので、有る事すら知らなかった。
安い上に、学食の料理の豊かさに、さすがフランス、またまた感激。
見る物、触る物、感動と感激の連続、満ちたる日々。
フランス株が上がる一方の毎日。
セルフ・サービスで、オードブル、メイン料理、サラダ、それにチーズまたはヨーグルト、
その上デザートまでついているフルコース! 勿論フランス・パン、バゲットは食べ放題。
学生食堂なのに、欲しい人にはワインの小瓶まで売っている。さすがフランス!
レストランに比べれば、確かに味は劣るが、質より量、そして何より安くなくっちゃ。
メイン料理は3品ぐらいの中から選べるのも有難い。
料理の分からない私には、バラエティーに富んだ料理を知ることだけでも又とない機会。
豆腐かと思ったら、子牛の脳みそだったり、ソーセージと思ったら豚の血を腸詰めにした
ブダンだったりと失敗もあるが、学食だから経験できたことだ。
ある日、フランス人の家庭で招待される、と手紙が届いた。
トゥールの学校には、最下位の私のクラスに自分も含めて3人、
上のクラスの人も全部合わせると、当時7人の日本人がいた。
招待されたのは私だけだ。夜8時に来い、と書いてある。
ブルジョア婦人が、外国人学生を招待してフランス家庭を見せる、と言う一種の道楽?
でもなぜ僕一人?遠い日本から来ている物珍しさと、その上一番若いから?
夜8時に呼ばれて、それから食事とは、いくらフランスでも遅いのではないか、と
クラスメートの東大出身の銀行家のお兄さんの忠告で、彼と一緒に夕飯を済ませて、
こんな時の為に、と日本から用意してきた浮世絵の扇子をお土産に持って、一人出かけた。
着いた時には既にトゥールの町の名士らしき容貌の紳士淑女たち10人余り集まっていた。
勿論こんな場所に出る経験は初めてのことだ。
知っている単語は未だ数えるほどしかなく、会話など洒落たことはできないにも拘らず、
日本のこと、学校のこと、フランスのこと、質問攻めにされた。
地方都市の名士達の、退屈しのぎの余興のため呼ばれた、なんて考えたら罰が当たる。
皆さんとても好意的に、親切に、もてなしてくれました。
だんだん慣れてくると、部屋の中を眺める余裕も出てきた。
既に日本でインテリア・デザインの勉強をしたと話しているので、
マダムが家の事や、家具を見せながら色々由緒ある説明をしてくれる。
豪華絢爛で、大きな暖炉、古い鏡、壁面には金箔が多くゴージャスに輝いているので、
「パリで見てきたヴェルサイユ宮殿みたいです」と言ったら、同時代の物だと言われた。
アルコールの入ったコップを手に打ち解けてきた頃、何とこれから食事だ、と言う。
私は其処でお暇する、と思っていたら、食事にも呼ばれている、と。
いくら未だ若くて、痩せの大食いで有名な私でも、続けて2度の夕食は無理。
恥を忍んで、「何も分からぬ私は、友人に相談した結果、既に済ませてきた」と白状した。
みんな笑ったが、むしろ好感もたれて、食べられるだけでよいから召し上がれ、と
結局2度目の夕食を、一応フルコースで人並み分ぐらいは頂いて参りました!!
日本を出る前、食事を残すことは料理人に対して失礼に当たる、と教えられた。
同じ頃日本から来た画家で、後にパリで知り合ったとき聞いた話だが、
ナホトカ経由で長い間ロクな食事にありつけず、北欧からやっと電車でパリに着いた夜、
初めてパリのレストランで食べた食事が、素晴らしい物に思えた、と話してくれた。
当時のフランス料理は、フルコースで今よりボリュームがある。
お腹一杯になったと思っていた矢先、チーズの盆が運ばれてきた。
何種類かのチーズが一つのお盆に、食事は未だ終わっていなかったのだ!
残すことは失礼に当たる、と必死になって頑張って食べていた。
と、マダムが見かねて、お盆を取りに来たそうだ。
食べ方から判断して、これはヤバイ。全部食べられる、と思ったのだろう。
彼は勿論、全部自分一人の為の物、と思っていたそうだから・・・
トゥールでの初めての名士たちとの晩餐会も、特にヘマをすることもなく無事終了。
再びサロンに戻って、食後酒とコーヒーのサービスが。
日本から持参してきた黄色い表紙の仏日辞書を片手に、大奮闘。
日本語の文字の話で、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類があります。
貴方の名前は、外来語だからカタカナで書く、と、こうなります。と裏表紙に書いた
マリー・ドミニックという字が、今も消えることなく残っている。
ずっと後になって覚えたブルジョア家庭を茶化す話に:
食後のサロンでのコーヒーの場で、ブルジョア家庭では
「お砂糖はお一つ?それとも、全く必要なし?」と聞くという。
間違っても「二つ?」とは聞かないそうだ。
その位ケチだと言うことだが、トゥールの家庭でどう聞かれたか、記憶にないのが残念だ。
当時の日本では、未だ、ものを食べながら道を歩く、と言う習慣がなかった。
車の排気ガスが多い中、カフェ・テラスなども考えられない状態だった。
朝起きて顔を洗うと同時に学校に行ったが、日本にいるとき同様、遅刻の常習犯だった。
下宿先から通りすがりのパン屋で、フランと言う菓子ケーキを買って歩きながら食べて、
朝食を丁度食べ終わる頃に着く距離に、程よく学校があった。
「フラン一つ下さい、いくらですか?」と、
毎日のことで値段が分かっているのに、毎回同じ質問をした。
答えは1フラン。但し、お菓子のフランはLだが、1フランのお金の方はRの発音。
この違いを聞くように、毎朝勉強のつもりで、同時に歩きながらフランを食べる、
日本では出来なかったフランス流の生活を楽しんだ。
あれもこれもと、連鎖反応で思い出すが、今現在の生活は何もかもに慣れきって、
当時の生活のように感激感動しなくなっているのではないか、と反省する。
確かに初めての経験、というのは年を重ねるごとに減っては来るが、
「何気なく目にする野に咲く花とか、小鳥のさえずり、
何でもない事に感動できることは大切なことですよ」と言われた
朝吹登水子さんの言葉が、懐かしい思い出として甦る。
チャン島にて 2009年2月14日
いくお
HOME
|