IKUOのひとりごと 〜フランス便り〜

<2009.1.15 File No.9>

ヘルペスと私

幼少の頃から、両親が病で寝込むのを見たことがない。
7人姉弟の中で、年に一度ぐらいは誰かが風邪で2日ぐらい寝込むことは
あったかも知れないが、特に誰が、と言う記憶もない。
大家族なのに、全く病院とは関係のない家庭で、これが当たり前と信じて育った。

病気の名前も、病状も、苦しみも、何も知らないまま18歳で家族から離れての生活、
21歳でパリに来て、薬局は2年に一度ぐらい風邪薬を買いに行く所で、
殆ど中に入ることすらなく、前を素通りするだけで永い年月が過ぎ去った。

今から15年前の真冬、スタッフの一人からメイエ村に手紙が届いた。
長い手紙で、要は、2月15日限りで退職したい、との内容だ。
全く知らなかった事を色々教えられたショックと共に、
一人暮らしで生活が掛かっているのに、今後どうするのだろう、と
妹のように気に入っていた彼女の行く先を案じた。

その頃、右耳にニキビ状の物が、2粒ほど出来て痛い。
パリで新作イヤリングのバランスを見る為、耳に付けた時、飛び上がった。
2月15日を最後に、辞めることになった彼女に向かって、
「ニキビが出来るなんて、まだ若い証拠だ!」と息巻いたのを良く憶えている。

その年の5月から6月にかけて、例年通り、北は札幌から南は宮崎まで
8箇所のイベントを旅して、1年に一度の再会を懐かしみ行く先々で歓迎された。
ただ、ツアー中、風邪をこじらせたのか、のども痛いし、とにかくシンドイ。
普段、まずないことだが、食欲がなくなった。
右耳のニキビは相変わらず痛いので、左耳を下にして寝ていたが、時々痛さで目を覚ます。
睡眠も、そんな訳で熟睡できぬまま、一日中疲労感があった。

宮崎展を終えて、いよいよ最後が東京、となった安心感もあったのか
宮崎では、とうとう我慢できず、控え室のソファーで横にならせて貰い、
皆さんに迷惑をかけてしまったが、何とか無事終了。

翌日東京に出発前、宮崎テレビの朝の生番組出演で、早朝6時、ホテルに迎えの車が来た。
終了後、そのままスタジオから病院に直行してくれて、初めての診察を受けた。
今までの日本ツアーの事、症状を話し、今から東京に向かう由など伝えたら
「ヘルペスかも知れない。顔面麻痺になればすぐ、色んな科のある総合病院に
行くように」と先生に言われた。

東京に着いた翌日からのイベントは、身体が言うこと聞いてくれない。
電話でお詫びして、休ませて貰った。
その翌日、イベント主催者が、慶応病院に連れてくれ、長い待時間も付き合ってくれた。
風邪だと思っていたし、のども痛かったので、行ったのは耳鼻科だ。
若い美人の先生が診てくれた。
色鉛筆使って、のどの絵を克明に描いていたのが印象に残っている。
「腫れてはないけど、扁桃腺」とのこと。
疲れているようだから、点滴しよう、ということに。
「先生、耳は?」「貴方、今、痛がっているから月曜日にもう一度来なさい」との返事。
東京でのイベント、第2日目、金曜日の出来事だ。
慶応病院には美人女医さんに色鉛筆で克明に描かれた私のカルテも保存されているはずだ。

月曜日を待つことなく、日曜日は飲んだお茶も口から流れ、右半分の顔が無表情になった。
益々食欲無し。
見かねた友人が、救急車を呼んで、中野区のひなびた病院に運ばれた。
金曜日に打った点滴が何か分からないし、明日、又慶応に行くなら
それまで待つように、と、体裁よく拒否された。

そして月曜日、慶応病院の耳鼻科で再度診察。
先日の美人先生は、見当たらない。
若い男の先生が診てすぐ、皮膚科に行くように。ヘルペスだ、と言う。
先生の言葉が聞き取れない。「貴方、聞こえないのですか?」と大声で言われた。

皮膚科の先生は、「即、入院が必要」と判断。
「すぐパリに戻れば、48時間ぐらい何とか・・・?」
「場所が場所ですから」
結局そのまま1週間、入院した。

ヘルペス菌を抑える治療と同時に、痛み止めや睡眠剤も与えられたので、
大阪から日帰りで来てくれた姉や、心配して見舞いに来てくれた友人たちも、
とにかく久しぶりに眠るばかりで、気がつかなかった人も数多くいて申し訳なかった。
その時病院で食べた、おかゆやヒジキが以来好きになった。

帯状疱疹:ヘルペス・ウイルスによる帯状の有痛性発疹、助間・顎・顔面・座骨部など
一定の末梢知覚神経に沿っておこり、小水疱が群生し周囲が発赤、所属リンパ節が
腫れる。約3週間で消退するが、神経痛を残すことがある。(広辞苑)

顔面に出来る小さい吹き出物は、ニキビしか知らない私には、
聞いたこともなかったヘルペスなんて、何のことか想像すら不可能。
その間、ニキビぐらいで医者に行くこともなかろうと、薬局にすら行ってない。
ヘルペスなら通常、群生するケースが多いが、2−3粒ほどしか出来なかったのも、
又、潜在期間が4ヶ月と言う長い期間だったことも、発見を遅らせる結果になったようだ。
ストレス、心配事、疲れ、などが発生するきっかけを作り出すとも後で聞いた。
いざ、菌が活性化した時は、進行が早く、ヘルペスと言われた時は
既に、右耳は完全に聞こえなくなっていた。

退院後すぐパリに戻って、パリの医者が、東京での治療をそのまま続けて行うことで納得。
それでも2日後には我が家でダウン。再び救急車でパリ7区の病院に。
慶応病院のモダンな建物とは対照的に、18世紀の中庭つきの修道院だった病院だ。
週末に運ばれたので検査も出来ず、最低2泊は必要。
結局5泊の入院で、異状無し、と判明。
体力低下の状態に、強い薬の投与、鎮痛剤、その上飲んだ睡眠剤などの影響と片付いた。
エイズの検査も勧められ、問題ないと思いつつ、検査を受けた。
退院後の先生の話では、エイズ患者で体力低下、ヘルペスになるケースも多いらしく、
心配されたそうだ。

退院1ヵ月後の検診で、耳鼻科の女医さんから
「貴方の右耳はもう一生聞こえません。残った左耳を大事にしなさい!」と宣告された。
「先生、右耳を粗末にした憶えはありませんが・・・」
「とにかくヘルペスで神経をやられているので、音が脳に伝わらない。
私たち医者に、何も出来ることはありません。」
ビシっと扉を閉ざされた。

さてこんな時、貴方ならどうする?

私の場合は、西洋医学でダメなら、ノンと言わない東洋医学の扉をたたくことにした。
当時、シャーリー・マックレーンの本が売れて、ニュー・エイジと言われる
東洋思想ブームが世界的にピークだった頃。
物事全てに、ちゃんとした理由がある。何一つ、意味の無いものは存在しない。
そして、その種の助言には事欠かない。
耳だから、もっと人の言うことを聞くべき、とか様々のことをアドバイスもされた。
祈祷師のような人から、気功、ヨガ、針灸、指圧、マッサージ、整体、など等、
日本、中国、フランス国内をあらゆる治療の旅をしたが、機会有ればまた書きたいと思う。

パリの病院を退院して数日後、初めて、夜、レストランで食事した。
私の右側に座っていた男女3人のグループが、どうやら聾唖者のようだ。
盛んに手で、ジェスチャーたっぷり話している。
私はまだ、片側の耳があるから幸せだ、とつくづく思った。
ちゃんと話も出来るし。

2日後、近所の行きつけの中華レストランで、食事。
またまた、右側の可愛いマドモワゼル2人が、手話で話している。
ニュー・エイジのご時勢、全て意味があるのだ。
絶望した私に、お前はまだまだ恵まれているのだ、と教えてくれているに違いない。
人の苦しみを肌で感じて、キリストもこうして人に対する慈悲と言う物を、
収得したのかもしれない。
と、頭の中で色々想像の世界が、勝手に走り出す。

食事中、何かの拍子に後ろに身体を回す必要があった。
その拍子に、、、奇跡が起こったかと一瞬思ったが、マドモワゼルの声が聞こえてきたのだ!
ちゃんと話しているではないか!
私の聞こえる方の左耳から、声が聞こえてきたのだ。
ここはフランス、皆、手の表情も豊かに話すことを、その時まで考えなかった。
と、言うことは、先日のレストランも同じこと??

なんと言っても世の中はニュー・エイジ、何か必ず意味が有るはず。
私に自分勝手に早合点するな、と教えてくれたのに違いない。
あるいは、自分の都合良いように、悪いのは何時もお前、と思うな!
との警告かもしれない。
いよいよ私も悟りの境地に近づいてきたようだ。

中耳炎で鼓膜に穴を開けて手術もした、曰く付きの左耳が助かった。
ニュー・エイジ実践の彼らの言い草は知らないが、
私の左耳からは良いニュースしか聞こえて来ない事に決めた。
嫌な聞きたくないことは、「ワテ、ツンボで聞こえまへん。」
お陰で毎日幸せな日々を過ごしています。

 

                     2009年1月10日
チャン島にて   
IKUO



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