我々の世代は東京オリンピック、大阪万博等の国際行事が相次いで日本で行われ
最も活気良く日本が経済大国へと前進真最中に子供時代を過ごし、
物質的には何不自由する事なく、甘やかされて育っている。
日々の生活が近代化され、快適な生活が手に入る様になった。
タイに来始めた1980年代は、未だこの国も我々の幼少時代以前の快適さ位しか望めない状態で、
一般の人の生活環境と旅行者のホテルでの環境に余りにも大きな差があった。
バンコック市内でも未だ掘建て小屋のような、何時吹き飛ばされるか分からぬような家に
住んでいる人が目に入る。
大都会バンコックでも、レストランやショッピング・モールは外国人しか目にする事はなく、
まるで西洋のどこかの町に居るような錯覚を受ける。
タイ人の住む殆どのアパートには台所がなく、通常屋台で売っている物を買って来て、
家で食べるのが一般的だったと聞いている。
ずっと後になってバンコックにスカイトレインが走る様になって、沈滞の激しい車でしか市内移動
出来なかったのが随分便利になった物だが、冷房のない公共バスに比べて値段が高過ぎて、
乗っているのは矢張り外国人ばかりだった。
その後来る度に、人々の裕福になって来る様子は、アレよコレよという間に
すっかり違う国の様に物質的には満たされる、豊な国へと変わった。
当たり前の事だがレストランやデパート、ショップでは今ではタイ人が主流のお客さんだし、
どこに行っても金持ちそうな人を一杯見かける。
むしろ懐具合を気にしながら旅する西洋人ツーリストの方が貧乏だ。
チャン島でも、行き始めた当時は、全くローカル客は居なかった。
他の国のアジア人すら居なかった。
海岸で見る観光客は100パーセント西洋人。
日本人も最近は時々短期滞在の人を見かける事は有るが、海以外に何もする事もなく、
名所見学する所もなく、その上、海でも遊べる物が何もなく、と退屈するのか来る人は少ない。
又、余裕ある日本人ならもっとデラックスなホテルの在る所が、短期滞在で
普段の自分たちの生活と一味違う超デラックスさを味わう旅として、向いているのかも知れない。
チャン島にも電気が来る様になって、島の様子はすっかり変わって来た。
扇風機はどのバンガローでも付いているが、エアコン付き、テレビ付き、冷蔵庫付きが
バンガローでも当たり前になった。
シャワーも勿論お湯が出る。
世の中の変化に応じて、島でも携帯電話の普及、そしてインターネットと
今では他の場所同様、何一つ不便なく必需品は何でも揃っている。
フェリーが30分毎に運行される様になったのは、島に取って画期的な動きを見せ始めた。
その頃から島中、建築ブームで、従来の海岸沿いの一等地のバンガローが
新規に建て直し始めて、ホテル形式のビルを中心に、何処でもプール、スパを売り物にする
リゾートへと新しいブームが始まった。
未だフェリーのない頃は、島には両替所も、もちろんVisaカードの現金引き出しも銀行もなく、
半日掛かりで船に乗って最寄りの町トラットまで行かねばならない。
レストランというか食堂は勿論、宿泊も全ての支払いは現金のみ有効。
まとめてある程度交換必要だ。
久しぶりに島から離れて、人の多いトラットの町で両替の後、島では考えられない
ケンタッキー・フライド・チキンで昼食済ませて、タクシーで再び港へ。
チャン島行きの船を見つけて、出航迄の間、近くで釣りをしているのを眺めて時間を潰した。
小さい漁師の船を改造した物だから、誰が乗っているのか一目で見渡される。
船に戻ったらロベールの横にアジア人の若者が座っていて、
二人で彼のつたない日本語で何か話していた。
"大阪から来たM君だ"と紹介された若者は、髪が長く茶髪にしていた。
日本人は未だ島では逢った事がなかったので、何か珍しい物でも見る様に
何でチャン島に?とこちらから質問攻めに遭ってさぞ驚いた事だろう。
船旅の間中、小1時間、会話が弾んだが未だ島での宿泊地を決めてないと言うので
我々のリゾートの話をし、現物を見て値段を聞いて決めれば良い、
気に入らなくとも回りに一杯バンガローが在るからと話して、安心した様だ。
一緒に乗り合いタクシーでバンガローに戻った。
若い彼は同じリゾートの道路を挟んで反対、山側のバンガローに宿泊する事になった。
M君は京都に在る大学を今春卒業。
大阪で或る銀行での就職も内定。
卒業前のひと時を、タイに来る事にしたそうで一人旅で予定が有ってないような
気楽な旅を楽しんでいるそうだ。
サムイ島で知り合った30歳位のフリーターの日本人から、チャン島という名前を聞いたそうだが、
彼の話で旅行中は十分気をつける様に、と注意されたらしい。
フリーターの彼は、東京で仕事をして金を貯めれば旅に出て、の繰り返しで何度か
タイに来ているらしいが、小さい島に居る時、夜、現地の青年達と気が合って意気投合し、
皆でビールを飲みながら、マイ・フレンドどうのこうの、と楽しんでいい気になっていたらしい。
その内誰かが、何処のバンガローに居るのか、とか、何号室か、とか聞いたらしいが、
全く無意識に質問にも答えていたらしい。
とにかく彼らの手法の、“マイ・フレンド”に惑わされ安心しきっていたのだろう。
その夜遅く自分の部屋に戻ったら、モヌケの殻、カメラから現金、パスポート、
金目の物全て見事に取られてしまったらしい。
誰かが席を立って行ったのか、誰かに知らせたのか分からないが、
あの時のグループに違いないと本人は確信しているらしい。
観光客ズレしたのが"マイ・フレンド"と寄って来るのは、
タイに限らず何処でも要注意に越した事ない。
バンガローでは金庫がないので、通常レセプションで預かってくれるが
矢張り若者向けの安い宿だと、レセプションすら安心出来ない感じなので
宿選びも注意が必要だ。
M君は毎日海水浴を楽しんでいる様だ。
いよいよ学生時代におさらばして、いざ仕事が始まれば日本の会社ではなかなか
まとめての休暇を取る事は今後難しくなるだろう。
最後の気ままな自由時間を謳歌している様で、何もない島暮らしは
これからの夢を膨らますには充分静で役立ったに違いない。
彼の滞在中は毎日夕飯を共にした。
若者らしくさっぱりとした、素直な青年で我々はすっかり気に入った。
話を聞けば、帰国後もう一度最後の旅を友人と二人で出かける計画中で、
フランスとドイツを回る事になっているらしい。
飛行機は大阪からパリ行きの往復チケットで、ヨーロッパはユーレル・パスで
気ままな旅を準備中との事。
予定通り動けば、我々より一足先にフランスに来る事になる。
せっかくの又とないチャンスなのに、それは残念、ドイツを先に回って
後からフランスに来れば向こうでも逢えるのに、と予定変更するよう友人とも相談し、考えてみる、
という事で我々とチャン島で別れた。
別れ際に、滞在中はお世話になりました、とプレゼントをくれたのには驚いた。
サムイ島名物と言っていたが石鹸を彫って、蘭や蓮の花を作って着色した物を漆塗りで、
フタには花柄を描いた球状のボックスの中に入れた飾りだ。
特にお世話と言われる事はしていないのに、若いのに良く出来た子だと感心した。
今もパリのアパートでM君の思い出として飾ってある。
フランスに戻って未だ時差も充分取れない頃、M君とその友人を知らされた時間に
ムーラン駅に迎えに行った。
髪の長い茶髪の青年が見当たらない!
うろうろキョロキョロ捜している中、合図する人を良く見たら、黒い髪でショートヘアーのM君だった。
既に明日からでも銀行に出行できる感じだ。
M君の友人も彼同様、素直で感じ良い好青年。
すっかり打ち解けて静な田舎でたっぷりとした時間を共有出来た。
日本の都会で、人の多い中、時間に制約される生活をしている若者には
チャン島での滞在や、メイエ村での静な時間は矢張りある意味カルチャー・ショックだった様で、
こんな生活を実際やっている人が居る、というのが彼らには新しい経験だった様だ。
毎年日本で恒例のイベント・ツアーのため帰国しているが、京都展の時には
二人で逢いに来てくれて、既に社会人として頑張っている様子を垣間見た。
その後も何度も顔を見せに、お姉さんと来てくれたり、一人で来てくれたりと
付き合いが続いている中、10年余り後に、結婚指輪のオーダーをしてくれた。
着々と昇級しているM君と、同じ銀行での職場結婚らしい。
共に仕事を持っているので、中々同時にまとまった休みも取れず、
簡単に新婚旅行を終えて、時間の取れる時にゆっくりフランスに行って、
奥さんをメイエ村に連れて行くのが夢だ、と嬉しいことを言ってくれる。
以前、宮崎のイベント中に知り合ったA君が学生最後の夏休みをメイエ村で過ごしたのが気に入り、
結婚後矢張り奥さんを連れて来た事が有るが
その後、子宝に恵まれて。。。とM君達がメイエに来たおり話したが、
彼らもその後、子供が生まれる事になった。
チャン島がきっかけで生まれた若い人との友情が、何時迄も続いて行くのは嬉しい限りだ。
近い将来チャン島に一家揃って子供連れで来る事も有るかも知れないと、楽しみにしている。
Le 4 Mars 2015 a Chiang
一森 育郎
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